朝日に輝く富士山頂ドーム 御来光(元旦)
108年前の3合目の風景
御殿場口で昭和初期に活躍した強力の梶房吉さん。太郎坊と頂上の間を5時間で往復する足の速さで、富士山測候所の仕事を手伝いました。小柄な体で重い荷物を運びながら登頂すること1672回。日本一の回数です。秦野市の佐々木茂良さんは64才で初めて富士山に登り、2013年8月2日73才の現在、1115回登頂しました。佐々木さんは富士山に向かう途中で買った新聞を毎朝山小屋に届け喜ばれています。
※参考/新田次郎「凍傷」 お話/佐々木茂良さん 写真提供/東富士山荘
厳冬の火口壁
私たちが住んでいる所から眺める富士山には、左側に大きなコブ「宝永山」があります。宝永山は、江戸時代に起きた富士山の大噴火でできた山です。宝永4年(1707年)旧暦11月23日10時、富士山の南東の斜面で噴火が起こりました。火山弾や焼砂はたちまち茅葺きの家を燃し、焼け残った家も灰に埋まりました。宝永の大噴火です。噴火は2週間以上続き、この時降った灰は小山町須走で3m、御殿場市中畑や柴怒田で2m以上積もり、遠く江戸にも降灰があり、雷や地鳴りが続きました。御厨地方一帯が壊滅的な被害を受け、復興に40年近くかかったということです。噴火から307年。宝永山は、今では穏やかな山です。トレッキングやハイキングを楽しむ私たちを、やさしく見守っています。
※参考/新井宿駅と地域まちづくり協議会 新田次郎「怒る富士」
紅葉の富士を下る
富士山は、静岡県と山梨県にまたがっています。山頂はどちらの県のものでもなく、富士山本宮浅間大社の境内です。住所はありません。地図を見ると、県境界線は頂上で切れています。富士山頂郵便局への郵便の宛先は「〒418-0011 富士山頂郵便局」ですが、郵便物は富士宮局留めになります。
※参考/富士山高所科学研究会のホームページ
ドームと鱗雲
夜の富士山ドーム
宝永の大噴火から3ヶ月後のぐみ沢村(今の御殿場市ぐみ沢)の記録です。「村人465人のうち3分の1以上の171人が別の村へ行ったか死亡したかでいなくなり、半数以上の251人が飢えて困っており、43人がなんとか生活できている。」あまりの被害のひどさに、幕府はさっさと復興をあきらめました。その当時、御殿場・小山では米が少ししか取れなかったので、復興を手伝ってもメリットがなかったせいもありました。「*駿東郡59ヶ村を亡所とするから、どこでも好きな所に行きなさい。」幕府の役人はそう言い放ちましたが、今と違ってよその村人を助けてくれる場所も手段もありません。全国からの義援金も、その一部は大奥の建物のリフォームに使われてしまいました。そんな中、復興責任者を任命された代官伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)は、さまざまな復興対策の事業を実施しますが餓死者は増えるばかりです。見かねた伊奈半左衛門は正式な手続きをとらずに、駿府(静岡市)の米蔵を開けて被災地へ米を配りました。
*現在の御殿場市・小山町のほぼ全域。約3万人が住んでいました。
※参考/(社)玉穂報徳会「五十年の歩み」 新田次郎「怒る富士」
鯉のぼり
スタール博士(左)スタール博士の碑(右下)
明治37年に初来日した人類学者のスタール博士は、アメリカに初めて日本学講座を設けた親日家です。後に、日米親善に貢献したことで、皇室から勲三等瑞宝章を授与されました。富士山が大好きで、須走口の大米谷旅館を常宿にして、5回登頂しました。「富士山の見える所に眠りたい」という遺言通り、友人達や宿のご主人の尽力で、須走に墓碑が建てられました。今も、当時の宿のご家族が墓碑のお世話をしています。
※参考/「富士の里須走」 米山 元さん 写真提供/米山 元さん
朝日に輝くドーム
伊奈半左衛門忠順の像
復興責任者に任命された4年後の2月、伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)は急死しました。新田次郎の小説「怒る富士」の中では、勝手に米蔵を開けた責任を取って切腹したとあります。過労死だったという説もあります。いずれにしても忠順の死後、幕府のえらい人たちは心を改め、復興に取り組むこととなったそうです。明治40年、伊奈半左衛門忠順の功績を讃え、小山町須走に伊奈神社が建立されました。吉久保水神社の祠にも忠順を祀ってあります。御殿場市の高根中学校では、この事をいつまでも忘れないように、毎年「怒る富士」の演劇を行っています。
※参考/新井宿駅と地域まちづくり協議会 新田次郎「怒る富士」