おやま魅力発見WEBBOOK
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富士山金太郎自 然歴史・文化産 業富士山見る遊ぶ買う食べる泊まる山麓のまち須走遊ぶ見るシカゴ大学の名誉教授でアイヌ研究のため明治から昭和初期にかけて15回の来日を果たした人類学者フレデリック・スタールの記念碑。日本をこよなく愛した博士は、富士山に強い憧れを持ち、須走口の大米谷旅館を常宿にし、たびたび富士登山をした。一方で五ツ星紋の羽織、仙台平の袴に白足袋を履き、「寿多有」の納札を作って日本各地の神社・仏閣を行脚したことから「お札博士」とも言われた。1933年に日本で亡くなったが、「富士山の見える所に眠りたい」という遺言通り、愛した須走の地に納骨され、友人達や宿の主人の尽力で墓碑が建てられた。現在東富士五湖道路須走IC横にある碑は平成元(1989)年に移転されたものである。碑面の文字は徳富蘇峰の筆によるもので、博士の人望と交流の厚さを物語っている。スタール博士の碑宝永4(1707)年11月、いわゆる宝永噴火により、麓の59ケ村が砂に埋没した。当時の関東郡代伊奈半左衛門忠順が流砂工事に着手したが、飢餓のため工事は遅々として進まず、半左衛門は意を決して、駿府紺屋町の御米蔵を開き1万3千石の米を村々に分配した。これにより住民は勇気づけられ、須走では2年後に宿場を復活することが出来たが、半左衛門は開蔵の罪状を問われ免職となり、後に割腹して命を絶った。北駿地区を救った功績と遺徳を偲び、慶応3(1867)年に小祠を建立、昭和32年10月に現在地へと移され、春と秋には例大祭が行われている。伊奈神社役場須走支所西側に、たき道が精進川へと下っており、入口には『たき道』の道標が残っている。平成元年開通した東富士五湖道路により、滝の面影は無くなってしまったが、かつて富士講の人々は宿に入る前に、まずこの「不動の滝」で精進し、身を浄めていた。富士山信仰は大日如来(不動明王)を祀ることが多く、この滝にも不動明王像があったと伝えられている。須走たき道7
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